シャンルウルファは、「ウルファ」と呼ばれている。「シャンル」は、独立戦争の際に夕刊に戦った住民に対して送られた称号だそうだ。この街は、人口53万人もいる「都市」だった。ずっと田舎を旅していたので、4階建ての建物とかビルとかに感心してしまった。交通もバス等しっかり走っており、移動しやすそうな街だった。夕方に着いたので、15リラのホテルに一泊することにして、ひとまず、アブラハム生誕の地を観に行った。
紀元前2000〜3000年頃から栄えていたこの街は、旧約聖書にでてくる預言者アブラハムが生まれたと言われる洞窟があり、巡礼地として有名だそうだ。その洞窟の辺りは、綺麗な公園のようになっており、池があり鯉のような黒い魚が、聖なる魚として、たくさん飼われている。伝説によると、アッシリアの領主が此所で彼を火あぶりにして処刑しようとしたら、神が火を水に、燃え盛る薪を魚に変えたという。池のほとりでは、魚の餌が売られており、子供が餌を水面になげると、養殖場の魚の様に、沢山の魚が口をポッカリあけて餌を食べようと殺到していて、あまりにも沢山の、そのぽっかりとした口の穴が気持ち悪かった。
ウルファは食べ物屋さんも沢山あるらしく、小さな店舗がひしめきあって、肉を串焼きしていたり、活気のある町だった。夕飯に激辛唐辛子が添えられたケバブを食べて、ホテルの戻ると宿の主人が、明日「ネムルートダー」への一日ツアーをするので75リラでどうだ?と言ってきた。まだ寒かったし、てっきりネムルートダーは、まだ雪で閉鎖中と思ってがっかりしていたし、旅行期間も限られていてマラテヤまで行って安いツアーを探すのも大変なので、ちょっと高いかなと思ったけれど、行く事にしたので、宿には2泊して、明後日ハランを見てからカッパドキアに向かう事にした。その後、うとうと寝ようとしていたら、夜11時頃、廊下がトルコ人のおばちゃんの集団のお喋りでうるさくなって寝れなくなってしまった。部屋を間違えたらしく、私の部屋の扉を何度もノックしてきたり、お喋りは、けたたましい笑い声を添えてヒートアップしており、とても眠れそうになかった。トルコ語が全くできないので、主人に注意してもらおうとレセプションに行ったら、主人が申し訳なさそうに、「近くの町から来た巡礼者の団体なんだよ。話をまったく聴かないんだ。彼女達は、他の旅行者の迷惑だからと注意しても、男と同じフロアに泊まらせるなんて!って、反対に抗議してくるし、どうしようもないんだ。さすがに、もう少ししたら眠るだろう。そうしたら静かになるよ。。」と諦め顔でタバコをくれた。やはり騒音で寝れずにレセプションにやってきた、翌日マルディン辺りからイランに入るといっていたカナダ人の男の人も、「注意しようとしても、男だから、怒るばかりで話もきかないし、部屋にも近づけない」と呆れていた。。ので、私が抗議しに行く事にした。一番うるさい部屋をノックすると、トルコのおばちゃんらしく、ふくよかなおばちゃん達が、好奇心旺盛そうな目をして、数人でてきた。すると、他の部屋からもおばちゃんたちがわらわらと集まってきて(彼女達は部屋の扉を閉める事なく、我が家の様にくつろいでいた)、私は、あっというまに、おっきいおばちゃん達の好奇心でキラキラした目に囲まれてしまった。どうみても、すぐ寝そうな目ではなかった。とりあえず、迫力負けしながら、英語で「うるさいんですけど、、」と言ってみたものの、聞いてなくて、「ジャポン!?」と言うので、うなずくと、日本人よ日本人!と、おばちゃんたちは、ざわざわ盛り上がった。一人が瞼を指でなでてパチパチしたので、うなづくと、まあまあやっぱり☆とみんなニコニコしていた。多分、うるさくて寝れないという事は、通じたので、すごすごと部屋に戻ると、しばらく話し声は聞こえていたけれど、深夜1時過ぎには静かになった。どこいっても、おばちゃんって、強いなぁ。。私も、将来,いつの間にか、あの強さを身につけてるのだろうか?と思いながら眠った。
ウルファからのツアーは、まずアタチュルクダムを見て、それからカフタに向かい、カラクシュという丘の上のコンマゲネ王族の古墳を観に行って、そして、ネムルートダーに行くコースだった。
まず、アタチュルクダムが出来たおかげで、この辺りでは水を引いて小麦を栽培できるようになったそうだ。沢山の町が沈んだんやろうね。と呟くと、ガイドのホテルの主人は、沈んだ町の個数まで答えてくれた(けど、忘れてしまった。。)ので、凄いなと思った。小麦畑や、小さな石油の採掘機が動いている景色の中にあるカラクシュの古墳の前には柱があり、その上の鷲の像が今だ門番をしているようだった。
その後は、ジェンデレ橋というローマ時代に建てられた橋を見に行った。橋の4角には、柱が立てられていたそうだけれど、王位継承のゴタゴタで柱2本は折られてしまったらしい。橋の傍の草地で座り込んで休んでいたら、傍を「フンコロガシ」が土団子を2匹で転がしていて、小人に出会った気分になった。
その後、崖の上に14世紀に建てられた城塞イエニ・カレを見に行って、コンマゲネ王朝の夏の離宮跡であるエスキ・カレという崖の上の場所に行った。エスキ・カレには、王とヘラクレス神が握手しているレリーフがあり、古代の言葉で、岩に説明がびっしりと刻まれていた。2千年以上昔のものが、綺麗に残っているってスゴイなぁと感心してしまった。このエスキ・カレあたりの風景は、きれいな渓流があったり、景色も優しくて、夏になると、この辺の人達が、バーベキューや泳いだり、ゆったりアウトドアを満喫するそうだ。あまりに自然が綺麗な場所なので、羨ましくなってしまった。
その後、いよいよモアイ像のような神像がゴロンとしている標高2150mのネムルート山に向かった。 標高が上がるにつれ、窓の外は、どんどん荒涼とした景色になっていく。ネムルート近くは、岩だらけの山道の景色になり、ここでも日陰に1m位雪が積もっていた。
荒涼としていても、こじんまり荒涼さがまとまっている様で、なんだかドゥーバヤジットの壮大な大地の景色の荒涼さとは、雰囲気が異なっていた。
不自然に三角になった山頂をもつネムルート山は、ユネスコの世界文化遺産に指定されている。コンマゲネ王国は、BC850年にアッシリアの文書の中に姿を見せ、AD71年にローマに滅ぼされるまでの間、ユフラテス川沿岸に栄えた小王国だそうだ。最盛期は、ネムルトダーの山頂に、この墳墓をつくりあげたアンティオコス1世の時代、BC1世紀。墳丘はアポロ、ゼウス、ヘラクレス、テュケー、アンティオコスの巨大な彫像が置かれたテラスに挟まれており、小石を沢山積んで作られているため、発掘が難しいらしい。古墳の傍まで車で行けるのだけれど、像がある場所まで20分位、徒歩で登らないと行けない。結構「登山」な坂道で登りにくかった。
そして、まず、東のテラスに行った。非常に風が強い場所で、耳元では風がごおごおと唸っていて、神像たちの正面の舞台のような祭壇に登ったら、吹き飛ばされて命が危ないカモ、、と思ってしまった。日本で冬に着ていたダウンジャケットを着ていて本当に良かった。神像達は、途方もない程の時間と風に晒されて、表面はガビガビになっていた。頸の落ちた胴体と、前に置かれた首のように見えて少し不気味だった。
その後、西のテラスに行くと、やはり風が恐ろしく吹いていて、カメラを持つ手が凍えそうだった。西側は、雪が1.5m程積もっているらしく、神像も雪の中で息をひそめているようだった。まったくもってスゴイ場所に、よく古墳なんて作ったなあと思ってしまった。
宿の主人の予定では、日没を此所で見てからホテルに戻るつもりだったそうだけど、風が強すぎて寒かったので、みんな(私と韓国人の二人組の女の子)帰りたがったので、さっさと下山した。
途中の山道では、ロバにのって移動している人を数人見かけた。
なんだか、ロバがかわいいので、なんとなくロバに乗っている人は、絶対的に良い人そうにみえてしまった。
帰りにお昼を食べたカフタの食堂で夕食を食べた。ラフマジュン(トルコ風スパイスで味つけされたひき肉が乗ったピザ)やケバブなど、今までで一番美味しかった。パンも、バケットでなく、ナンみたいな焼きたてのパンで美味しかった。
ウルファのオトガルから、ドルムシュに乗って1時間あまりの場所にあるとんがり帽の建物が独特の村のハランは、アッカド語で「道、旅に出る、旅団」等を意味するHARRANUに由来し、BC5000年頃から人が住み始め、BC2000年頃にはアナトリアとメソポタミアを結ぶ交易路として栄えていたそうだ。預言者アブラハムが住んだ土地として、旧約聖書の創世記にも出てくる。
ハランは、BC2000年代から、アッシリア、ヒッタイト、バビロンといったオリエントの覇者たちの神殿的な役目を果たし、オリエントの歴史と共に、新アッシリア、メディア、新バビロニア、ペルシア、アレクサンドロス、セレウコス朝シリア、ローマ帝国、ビザンツ帝国、アッバス朝、ハムダーン朝、セルジュクトルコと支配層は変われど、学問都市として繁栄し続けていが、13世紀、モンゴル人の征西の際に、完全に破壊されてしまったらしい。
独特の形の屋根は、冬寒く、夏暑い(50℃近くなるらしい,,)気候から生まれたそうだけれど、現在は実際に住んでいる人はおらず、一部の観光客相手のカフェ等以外は、家畜の小屋になっていた。ボロボロのハラン城からはハラン遺跡と村を一望でき、高い塔が目印の最古のイスラム大学の遺跡もある。ハランは、歴史の瓦礫と共に時を過ごしているような村だった。かつては立派なお城だったに違いないお城は、地元の子供達が山羊の番をしながら遊んでいたり、牛が歩いていたりしており、至る所で土の上に半分埋まりながら石が散乱していた。昔の建物の跡らしい。休日だったからか、子供達がサッカーをしたりして遊んでいた。
ウルファでは、ハランに行くと言うと、子供達にお金をあげない様に、と注意されたし、「歩き方」にも、子供達に物を与えないでと書いてあった。あげるつもりは、全くないけれど、ハランは、今までの町とは、ちょっと異質の場所のようだった。帰りのドルムシュで、突然、運転手が「ハラン、グッド?」と訊いてきたので、うなづくと、微妙な表情をしていたのが、不思議で、妙に印象に残ってしまった。ハランでは、地元の自称大学生がついてきて、勝手にガイドをしてくれたのだけれど、アラブ人だと言っていたので、そんな民族問題でもあるのかなと思った。